予算審議が混迷の度を増している。 こども手当法案も通るかどうか微妙な情勢だ。 与党である民主党の中にもこの法案が本当に国民の為になるのかどうか疑問を抱いている議員がいるようだが、菅政権の閣僚や多くの与党議員がこの法案は国民の為になると頭から信じきっているとは本当に呆れる。

今から38年前の1973年1月半ば、私は社命でインドのアンドラプラデッシュ州グンツールという地に出張した。 出発に先立ち、インドの政治経済情勢や生活風習等を色々事前調査したが、新しい資料が乏しく十分な知識を得られなかった中、既に過去数回出張経験がある同行者から一つの忠告を受けた。
「インドでチップをあげる時はくれぐれも注意するように」
既に海外駐在歴4年、ヨーロッパ、アジア出張も経験している私に対して敢えて忠告するのにはそれなりの訳があるのだろうと思い、「どういう事ですか?」と問うた所、「意味なくチップを渡したら死に目に遭うぞ」との事。
それから4月初旬に血を吐いて帰国するまでの3か月近くに亘るインド滞在中に綴った日記を今改めて読むと、当時のインド事情がまざまざと脳裏に蘇るが、「生きる」という事はどんなことか、を骨の髄まで教えられたインド出張だった。 その日記には「チップ表」も載っている。
羽田を発ちシンガポールで1泊し翌日マドラスに向かう。 マドラス国際空港に降り立った。 国際空港とは名ばかりで当時は砂漠の中に滑走路とコンクリートのぼろビルだけ。入国査証の役人も税関職員も先進国の乞食に近い茶色に汚れた制服で物欲しそうにジロジロ。 いちゃもんをつけられたら100円ライターをそっと渡せば何とかなる、と聞かされていたが、無事通過。中期滞在の為に日本食やら何やらと詰め込んだ荷物が4つ程あったが、どうやらパスポートに何ページにも亘って押してある多数の渡航歴スタンプを見て、敬意を評してくれたようだ。
一安心して同行者と荷物をカートに乗せてホールに出た途端、異変が起きた。 10数人の子供たちや大人がワッと押し寄せてきて我々の荷物を奪い合い始めたのだ。たまたま迎えに来てくれていた取引先のスタッフが、すかさず寄ってきて彼らをたしなめ、一人に一つずつ持たせて待機中の車まで運ばせたが、荷物一つ1ルピー(当時は7円位だったか)のチップを稼ぐための争奪戦だったのである。 貧しい子供たちは学校にも行けずチップ稼ぎに精を出していたのだ。 後で教えられたが、同業他社の何人かが空港で荷物を持ち去られたこともあるという。 
その日はマドラスで一泊し、翌日夜行列車で目的地に向かったが、停車するどの駅でも似たような光景が繰り広げられている由、終戦直後の東京でもここまでひどくはなかったのでは、と強烈なカルチャーショックを受けてしまった。
街を歩いていると、兎に角子供や大人の乞食が両手をかざして「金をくれ、物をくれ」としつこくまとわりついてくる。 だが、彼らは決して現地人にはせびらない。 貰えない、とハッキリ解っているからだ。 所が、その現地人と言えば、たとえ自分が貧乏であっても、手足が不自由だったり、目が悪かったりとか何らかの障害があって生活に困っている人を見たら必ずと言っていい程なにがしかの施しを与える。 だが逆に、大人であれ子供であれ、男であれ女であれ、五体満足な人間にはどんなにせがまれても絶対に何も与えない。 
そういう暗黙の毅然としたルールがある社会で、ええかっこしたがりの日本人観光客が、例えば元気に観光地周辺で走り回っている可愛い顔をした女児の乞食一人にチップを与えたとしたらどうなるか。 実は、私は実際にこの目で似たような光景を見る機会があったのである。 何と、その御仁は一人の女の子にルピー紙幣をあげた途端、近くにいた大人や子供の乞食のみならず、はるか遠方からも走って押し寄せてきた乞食の群れにまでもみくちゃにされてひん死の状態に陥ったのである。 
当人はなぜそうなったか理解に苦しんだであろうが、世間に甘ったれた生活に慣れきっている今の日本人も理解できまい。 当然ながら民主党の面々も、甘やかされ放題の国民に対してええかっこしたがる偽善家集団だから、こども手当などという、人間を根底から堕落させてしまうような最悪の法案を、良かれと思っている。 もし、そうなるであろうことを知っても尚この法案を通そうとする議員がいるならば、彼こそまぎれもなく亡国の徒である。
私がこのブログをスタートした時に例えた、英国の紳士と乞食のエピソードをもう一度じっくりと考えてもらいたいものだ。