今日は赤穂浪士の討ち入りの日だ。正確に言えば討ち入り時刻は15日の午前2時頃とも言われているが、江戸時代は夜が明けないと15日とは言えなかったらしい。
自分のことことで精一杯の現代人には「そんなのかんけーねー」の一言で終わりかも知れないが、退廃した文化や道徳が世を席巻していた太平の元禄時代に、そんな世の中に憤りを感じていた常識ある市民の心を根底から揺さぶるような大事件でもあった。
忠臣蔵」の意味は「忠臣大石内蔵助」の略であろうが、討ち入りに参加したのは総勢47人である。でも、主君浅野内匠頭(たくみのかみ)の墓前に到着したときは46名だった。
寺坂吉右ェ門が本懐を遂げた後に消えたからだ。その本当の理由を私は知っているつもりだ。でも今ここでは教えない。別の形で追って発表したい。
今日のNHKの番組(朝8:35から50分間)に楽天の野村監督が招かれ、生い立ちを辿りながら色々なエピソードを語っていたが、彼の人となりを表す自己表現は「私は夜に咲く月見草」に尽きると思う。名言というより「至言」である。長島茂雄がひまわりなら、やはり彼は月見草なのだ。
どんな時代にも、ひまわりと月見草は一対となって存在する。スターがいれば必ず裏方が存在する。要は裏方の美しさを世間が気がつくか気がつかないかだけの差である。
「お蔭様で」という言葉の意味は何か。それはハイライト、スポットライトを浴びている人が、自分が輝いているのは「陰」の存在があるからだ、と言うことを知っていて、その陰に対して感謝の意を表す言葉なのだ。
大石内蔵助と46名は、主君の仇を討つ、という目的達成の為に紆余曲折を繰り返しながら何とか本懐を遂げることが出来た。その時点で彼らは一躍大スターとなった。
他方、万が一彼らが討ち損じた時のことを想定し、極秘に行動を起こしていた十数名の赤穂浪士集団がいたという言い伝えがある。忠臣蔵の物語の中では悪名高い大野九郎兵衛がその集団のリーダーだったという言い伝えが残っている。
それを「ばかばかしい」と断固否定する内蔵助崇拝者は多いが、もし47名が吉良上野介を討ち損じ、実在した彼ら十数名が替わりに討ち果たしたとしたら、歴史はどうなっていただろうか。
歴史に、たら、れば、は禁物だが、多くの出来事の裏には我々が想像を絶するほどのドラマが無数に隠されている。だから歴史小説家は、自分の想像の世界にどっぷりと浸かって面白いストーリーを際限なく生み出す。
寺坂吉右ェ門が消えたことは事実として残っている。しかし、その直後から死に至る迄足取りは不明である。私は、彼は大石内蔵助から幾つかの重大な役目を担されていた、と断定に近い推測をしている。

所で、例年ならこの時期TVも新聞も出版社も書店もこぞって「忠臣蔵」関係で賑わうのに、今年はテレビ東京のみが相変わらず古い「忠臣蔵」の映像を細切れにして一週間ほど流し続けていただけで他のマスコミはほとんど特集無しだった。
若者が振り向かない事物なら何でもポイと捨てるこうしたマスコミの貧相なポリシーには失笑を禁じ得ないが、過去の歴史の大きな出来事にも、これから起きようとしている重大なことにも、自分には「そんなのかんけ〜ね〜」で決め付ける日本人がどんどん増えているらしい。
彼らは光の有難さも影の有難さも見えない透明人間なのだろうか。