今月12日の日経夕刊と13日の産経朝刊に「志士よ、立ち上がれ」と言うタイトルで、坂本龍馬が運んだとされる、長州藩久坂玄瑞が土佐勤皇党の武市半平太に宛た手紙が80年ぶりに発見されたと報じられた。
記事によれば、その手紙は文久2年(1862)に書かれたもので、内容は「諸大名も公卿も頼りにならず、草莽の志士を集めて立ち上がるしかない。 大義の為ならば、長州藩土佐藩が滅亡しても苦しくない」などと書かれていて、勤皇党や下級武士に決起を促しているとの事。
私は中学2年生の時に学校の図書館で坂本龍馬に出逢い、歴史上で一番尊敬する人物と位置づけ、更には誰が彼を暗殺したかをオレがきっと解明してやる、と意気込み片っ端から関連本や資料を読み漁ったものだった。 しかし、読み漁れば漁るほど、色々な要因が絡み合い複雑になりすぎてしまい、残念ながら未だに自分の中で真犯人は特定出来ていない。
とは言え、お陰で幕末から明治初期にかけての自分なりの日本の歴史観が出来上がったようにも感じるし、その後の自分の生き方に多大な影響を与えてくれたであろうことは今迄の自分の足跡からも窺える。
日本が鎖国から開国へと転換する発端となったのは、ペリー提督率いる黒船来航であることは疑う余地はない。 ペリー艦隊の来航により騒然となる中、天皇を守り外国人を日本から追い払え、と尊皇攘夷論者達が勤皇党を結成して弱腰の江戸幕府に対し政治的圧力をかけた。 久坂玄瑞武市半平太(時代劇映画の主役で、“春雨じゃ濡れていこう”の名台詞で有名だった月形半平太のモデルとも言われる)などはその典型だが、久坂玄瑞蛤御門の変で戦死し、武市半平太は土佐で刑死する。 しかし、彼ら勤皇党の行動を冷ややかに受けとめている別の集団がいた。 彼らと全く逆の開国論者達だ。 彼らは別の意味で外国を恐れていた。 このままでは間違いなく日本は滅びる、という危機感を抱いていた。 彼ら真の開国論者全員の共通点は唯一つ、例外なく世界に目を向けていた人達ばかりだった事だ。
幕末とは言え鎖国政策厳しい中、薩摩藩長州藩からは幕府の許可なく藩命による10代20代の若者の密航者が相次いだが、彼らこそ海外の知識を体中満杯に溜め込んで帰国し命がけで政治改革、文化改革に奔走した、正に明治維新の立役者だった。 
歴史に、たらればは禁物ながら、想定してみたくなるのは人の常、もし坂本龍馬が凶刃に倒れずに明治時代も生き続けていたら、岩崎弥太郎の10倍100倍にも値する正に日本国を代表する政商になっていたかも知れない。 日本が海洋国であることを、くじら塩吹く土佐で感じ取り、勝海舟との出逢いで更に発展させ、長崎で亀山社中を設立した経緯からも、日本を出来るだけ早く開国し世界中を相手に商売して日本を豊な国にしようと世界を股にかけて東奔西走したに違いない。

さてさて今、日本は目を覆いたくなるような政治の幼稚化が進行中であり、首相をはじめ殆どの政治家や官僚が世界からどんどん馬鹿扱いされる日々が続いてる。 正しく日本の政治力も国民の知的レベルも着実に低下して来ている。
そんな中、「志士よ、立ち上がれ」と言わんばかりの「立ち上がれ日本」という新党が結成された。 そして、政党名が公表された途端に、「たそがれ日本」とか「たちがれ日本」とか揶揄された。 マスコミや日本人のこんな捉え方を見て、私は、政党名ではなく、今の日本全体がたそがれている、とつくづく感じている。
石原慎太郎都知事の言を借りるまでもなく、戦前戦中生まれは、日本人として誇りを持ち、日本国をこよなく愛し、そして親兄弟や隣人友達を大切にしながら、政治も仕事も頑張ってきた。 その日本が今危うい状態になってきているのに、若手や中年の政治家は何も感じないのか全く行動しようともせず、何の反応も示さない。 そして、そんな閉塞状態に我慢しきれなくなった憂国の志士がご老体に鞭打って決起するとすかさず上のような揶揄で茶化す。 救いようのない知的レベルの低下だ。
何遍も繰り返すが、金銭感覚のない人、親の恩を感じない人は絶対に人の上に立たせてはいけない! 立たせるからこんな結果を招いてしまうのだ。
松下政経塾の卒業生達よ、何故立ち上がらないのか。 何故卒業生達だけでもいいから先ず結党しないのか。 多くの国民が貴方達が立ち上がるのを今か今かと鶴首して待ち望んでいるのに。 塾を開いた松下幸之助氏も草葉の陰でさぞや歯噛みしている事だろうに。