今年8月25日(水)付の日本経済新聞朝刊に晩年の樋口季一郎氏の写真と記事が載った。
その記事によれば、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が「知られざる美談」として紹介する準備を進めているが、それは今年の5月、UNHCRのヨハン・セレス駐日代表が英字紙の特集記事を読んで彼の救出劇を知った事によるとの事。「難民のお手本だ」と再評価に乗り出したようだ。
ナチスドイツの迫害から逃れてきた数万人のユダヤ人は、残された最後の逃避ルートとして日本経由での渡欧や渡米を必死に模索し、日本への一時入国ビザ取得の為にリトアニアの日本領事館に殺到したが、日本国政府は日独伊三国同盟が締結されている関係で、公的にはユダヤ人へのビザ発給を拒否していただけではなく、リトアニアを占領したソ連政府から各国は大使館や領事館の閉鎖も命じられていた為に日本領事館も閉鎖目前に迫っていた。しかし、杉原千畝(すぎはらちうね)総領事は外交官としての任務より人間の命を優先し、それから不眠不休でビザを発給し続けた話は「6000人の命のビザ」日本のシンドラーとして有名である。
イスラエル人に杉原千畝氏を知ってるか、と聞けば、中高年なら間違いなく「イエス」という答えが返ってくる。 しかし、同じ人間にそれでは樋口季一郎という人物を知ってるか、と聞くと殆どの人が「ノー」と言う。そこで私は何度も彼の事を説明する破目に陥る。
私が彼の存在を知ったのも、やはり杉原千畝を知ってからかなり経ってからだが、それでもかれこれ20年以上も前である。
樋口季一郎ユダヤ人の関係を簡単に説明すれば、杉原千畝が6000人ものユダヤ人にビザを発給して命を救った時より2年も前に、当時陸軍特務機関長で満州に赴任していた樋口少将(当時、後に中将)が、軍の命令に背き、ナチスの迫害から逃れてはるばるソ満国境のオトポールに到着した数万のユダヤ難民を救う為に、満州国や満鉄を強引に口説き特別列車を大増発させビザも発給させ、延べ2万人もの難民を満州国に受け入れた男である。世に言う、「オトポール事件」の立役者だ。この事件によって開かれたルートは後に杉原千畝が発給したビザにも大いに役立っている。 
この事件が、彼の後半生に大きな影響を与える事になるのだが、私が樋口季一郎中将に最大の敬意を表するのは、彼が1945年8月15日の時点でまだ第五方面軍と北部軍管轄区司令長官を兼任していたが故に、北海道がソ連軍に蹂躙される事態から辛くも逃れられた、と信じているからだ。
樋口中将は、ある意味では悲劇の将軍でもある。アッツ島での玉砕を余儀なくされた時は短期間に体重が10キロも痩せたという。人道主義で部下思いの彼に取ってアッツ島の玉砕は地獄の責め苦にも似たものだったろうと想像がつく。 しかし、そのあとすぐに、その隣の島であるキスカ島から5千人をも越える兵士の全員救出を成功させるという奇跡も演じている。
そして、ソ連参戦、8月15日に日本はポツダム宣言を受諾、終戦となった。 しかし、不凍港のある北海道を何とか手に入れようと目論んでいるソ連軍は17日深夜になってカムチャツカ半島南端から千島列島の最北端に位置する占守島の日本軍に猛攻を加えてきた。
樋口中将はソ連の汚さを解っていたから、もしかして攻撃があるかもしれないと、警戒を緩めなかったから、日本軍は猛然と反撃に出てソ連軍に大打撃を与えた。
これがその後のソ連軍の千島列島南下のスピードを大きく鈍らせ、北方四島まで占領した所でアメリカから抗議が入り北海道上陸は成しえなかったことになる。
それが故に、スターリンの樋口中将に対する憎悪が深まり、戦後になって、ソ連は強硬に樋口中将を戦犯としてソ連への引渡しを要求してきたが、それを聞きつけたオトポール事件の時に世界に散らばったユダヤ難民が立ち上がり大きな力となってそれを阻止したようだ。
日本国民も、北海道民も、イスラエル人もう少し樋口中将の事を知るべきと思う。そして、改めて敬意を表すべきと思う。
今後のUNHCRのより活発な広報活動を期待したい。 
参考までに以下に2冊の本を紹介するので心ある方に是非一読を薦めたい。 だが、売国奴に近いような言動を繰り返す民主党の面々、特に自衛隊暴力装置と言って憚らないSENGOKUやロシア寄りのLOOPYには読んで欲しくない。

「流氷の海ーある軍司令官の決断」 光人社 初版:1973年、新装版:1988年、最新版:2003年  著者:相良俊輔(児童小説、戦記小説家、1979年8月没。 墓は生前に親交の深かった樋口中将の墓のすぐ側にある)

「指揮官の決断 満州アッツ島の将軍 樋口季一郎」 文春新書  初版:2010年6月  著者: 早坂隆(ルポライター